19になった

ドキュメンタリー・アンド・モキュメンタリーブログ

ナイトクルージング

暗闇。ああ私は一人になれる。暗闇。ああ私は独りで生きていける。台風のおかげで停電になって、電気はつかなくなって、人々が不便を強いられている。それはあくまでも自己的で利己的な強迫観念によるものであり、私からすればそれは駅に転がるガムの包装紙より気にならないものだった。携帯の電源は切れて、というか無駄に使い果たして携帯の充電を切り、テレビなんてつかない、災害用のラジオは疲れる。夜はあたりは暗闇に包まれる。車のヘッドライト一つすら感じない。目を慣らすのに数分はかかる、そこで感じる不安は定員率が100%に近い電車内でさえ埋まらない隣席を見つめる時と同じくらいだった。夜は長い。私は夜に散歩したときに毎回この町の電灯の多さ、車のヘッドライトの明るさ、マンションの数多の灯りにイライラしていた。家に帰れば私も電気をつけるし、夜に車で出かけるときはライトをつけなきゃ危険だし、電灯がないと多分犯罪率は上がっちゃうし、全て必要なそれかもしれないけど、私にはその全てが億劫でたまらなかった。お昼は明るい。それは当たり前で、お昼に独りになれない人は、夜に少しの期待をするしかなくなる。なのに、その夜すら私達から奪われて、遥か彼方のどこかまで消えてしまったのだ。人々は身体的健康には目くじらばかりたててるのに、精神的それに関してはまるでそんなものないかのように無視をしている。学生がいじめられっ子にするものとはたちの悪さが違う。ストレスで男はタチが悪くなるぐらいきつい。生きてるのがきつい。そんな私に必要なのは、この世界の有機物と隔離された世界であって、私の正義と私の価値観と私の意見だけで形成されている世界。それは私の中に存在すればそれで良いと思っていた時期もあったが、この世界にうんざりしすぎて、外の世界にも私の世界を求めるようになった。それは現実的ではない。そんなことはわかってる。だから私は少しでもその世界に近づこうと暗闇を欲した。何故だろう、光という存在が、私と世界を無理矢理につなぎ合わせようとしてると感じてしまうのだ。私は考えた、光を失くしてしまえば、私と世界を繋ぎ合わせるものは無くなってそれぞれがめいめいに自由に生きていけると。つまりこの夜は私にとってこの上ないチャンスなのである。私と世界を解放するチャンス。たった一夜だけでもいいのだ、私は解放されたいのだ、この世界から。そうすることによって多分私は一生生きていけるような気がするのだ。