19になった

ドキュメンタリー・アンド・モキュメンタリーブログ

memo

大事なのは初期衝動をいかに継続させるか。高校生の時は有り余るほど書きたいことがあって、想像力も創造力も有り余るほどあった。今はそれが少しづつ減ってきて、絞り出しながら書いたりしてる。それは身体の臓器を売ってる感覚にも似ている。

でも悪いことじゃないというか、身体の中を空っぽにしてまた新しい臓器を移植されて、そのあとまたその臓器を売っていく。それを繰り返している感覚。

もう自分の言葉に飽きた。お決まりの言葉と、お決まりの形でしか書けない。タバコとコーヒーという言葉を文章に入れた時、なんとなくエモくなる。それはその言葉自体がエモいのであって、僕が書くからエモいわけじゃない。

それに反して例えば、軍手という言葉は全然エモくない。だけどもし、「少しづつ汚れる軍手に思い出す人がいる。」という文章を書けば、軍手という言葉は途端にエモくなる。

FORK「布団が吹っ飛んだ。これはダジャレだ。布団が俺に吹く強烈な追い風に乗って吹っ飛んだ。これはライムだ」

そういうことだ。

 

あと最近エモいって言葉使うようになったんですけど、便利ですね。新しい言葉がでだした時、ちゃんとした日本語を喋りな、と思うたちの人間で、言葉による感情の表現の幅が失われるという、便利故の危機感とか感じるかもしれないけど、言語自体が便利ツールとして開発されたとするならば、使わないわけはないというか。エモいという感情の時にエモいという言葉を丁寧に使えばそれは問題ないと思います。